山歩きについて

 2007年1月、年が明けて間もないこの時期に山登りに急に目覚めた。実は一年くらい前から、「新・分県登山ガイド 栃木の山 山と渓谷社発行」のカラーページをめくりながら少しづつ山への思いを高まらせていたというのが正確だろう。更に忘れてはならないことがある。子供の頃、家族旅行といえば殆どが山歩きか、山や山里に関わるレジャーだったこと。父親とのその頃の想い出が40年近くもの歳月を経て記憶の深部より目覚めたというのが最も明確な理由だったと思う。

 手始めの第一歩は宇都宮市内にある鞍掛山であった。自宅からさほど距離の離れていないこの山を手軽と踏んだのであろうか。それでも登山口を見つけるのにまず苦労した。装備はまったく無く、靴は普段履きのスニーカー。子供が使っていたデイバッグに水と食料を放り込んだだけだ。1月だったから、単純に「山の上は寒かろう」と考え、いつもの厚手のジャンパーを羽織った。文字通り頭のてっぺんから爪先まで見事に普段着のままである。
 既に中高年の登山ブームもたけなわで、鞍掛山のような比較的マイナーな山頂にもハイカーの姿は多い。運動不足な体にムチ打ちながら、ボロ雑巾のようになりながらも山頂に辿り着いた自分へ向けられた視線が痛かったのは言うまでもない。『こいつ、何も知らずに今日初めて山に登ったな』と。

 装備や経験が限りなくゼロに近い自分だったが、それよりも逼迫していたのは体力の無さである。長年ひたすら椅子に座り続ける仕事をしていて、週休2日制が会社に導入されても初めの10年間はまったく自分には縁がなかった。出張も多く、たまの休みは家でじっとしている日々。当然運動不足で、気がつけばメタボ街道まっしぐらであった。
 そんな状態での鞍掛山登山は強烈であった。山慣れした現在でも時計回りコースの階段直登は敬遠したいところだが、途中でいったい何度立ち止まって息を整えたことか。幾度路傍に腰掛け休憩したことか。樹々に覆われた山頂には景色が無かったが、大岩から見る景色のなんと胸のすくことよ。

 翌日は筋肉痛という素晴らしいお土産が付いた。朝目覚めた時に、まず自宅の階段を降りることが出来ない。なんとか車に乗り込むも今度は会社の階段を登るのに一苦労。手すりにつかまりながら少しづつ上がっていくと、皆に『どうした。怪我でもしたのか』と尋ねられる始末であった。

 

 冒頭の父親との山登りついて考えると、間違いなく現在の自分の登山のルーツであると思う。歩いたのは奥多摩と秩父が主だった山域だったが、風景に対する価値観とかルート取りに対するこだわり、尾根歩きの心地よさなどは知らずうちに父親から学びとっていたのかもしれない。自ら当時の父親の年齢を越えてみて初めて気づいたことである。

 山行の中でも特に足繁く通ったのが奥多摩の山である。中央線の某駅から乗車し、立川駅で乗り換える。当時の立川には、ベトナム戦争の物資輸送の米軍機が頻繁に離発着を繰り返す立川基地があった。家族で買い物に出掛けた際に食事をした立川のデパートの窓から見たのは、見渡す限り広大な基地に米空軍の星のマークが付いたおどろおどろしい迷彩色の輸送機が着陸し、そして物資を満載にして再び飛び立つ光景であった。子供心にも「ここは本当に日本なのか?」と思ったものである。

 そんな立川駅から青梅線に乗り込む。青梅線の列車はチョコレート色の車体で、床は油が染みこんで黒光りした木製である。昭和40年代半ばとはいえ、国鉄も私鉄も高度成長期を迎え近代化の一路を辿っていた時代だ。当時としても前時代的な匂いのするこの列車に乗り込むと、既に登山が始まっているような錯覚に陥ったものだ。
 今でこそ青梅線沿線はベッドタウン化して朝夕大量の通勤客を乗せているが、当時の青梅線の乗客はさほど多くは無い。加えて昨今に比べると登山人口そのものも僅かであった。少ない乗客の中に紛れ込む地味な姿の登山者は、殆ど揃ったようにキスリングをドカッと床に置いていた。自分の父親もまた同じであったし、現在のような華やかなウェアもザックも当時は皆無であった。(キスリング=帆布製のザック

 列車が青梅駅を過ぎ、多摩川の渓谷沿いを走る頃になると、そこが東京都であることは忘れてしまうような美しい山林の姿が展開されていく。沢井駅付近ではワサビ田が目に飛び込んでくる。このあたりは良い湧き水が出るらしくて、ワサビの栽培と酒造りで有名だ。
 左手に大岳山、右手には本仁田山が見え出し、峡谷沿いを列車が軋むようにして進み、長いトンネルから飛び出すと最終地点の氷川駅(現奥多摩駅)に到着する。

 標高が2000mに満たないこのエリアは子連れで登るには丁度良い山が多く、有名な山は我が家も結構多数踏んでいる。中でも一番記憶に残っているのは秩父の三峰神社から入山し、白岩山経由で雲取山に登った時の事だ。初めての山小屋泊まり(雲取山荘)に興奮したこと、翌日の六ツ石山経由の下山の長かったことなどが鮮明に記憶に残っている。母親は山歩きはまるで駄目なので留守番専門だったが、父と4歳年上の兄と三人で歩いた山歩きについて、当時は「なんでいつも山歩きなんだろう」と正直に思っていたものだ。だが、山好きになったこの歳になって思い返すと、なんとも贅沢な経験をさせて貰ったことへの感謝の念が静かに沸き上がってくるのだ。

 栃木の山を歩き始めて、初めのうちは体力が追いつかずに苦労していたが、最近ようやく自分の体力でもなんとか登れる山が徐々に増えてきた。そして気がつくと栃木百名山の残りも少なくなった。
 栃木百名山については特にこだわる訳でもないが、いざ残りが少なくなってくると心も揺れるというもの。残った山はかなり難易度が高い所も多く、まぁ気長にやっていこうと思う。
 それよりも、バリエーションルートを好む自分としてはまだまだ歩きたいルートが地図の中にいくらでも転がっている。そして、ちょっと栃木県から足を延ばせばまた違った素晴らしい山域も沢山ある。体力が続くうちは今後も是非歩き続けていきたいと思うのだ。